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 「新型コロナウィルス[COVID-19]パンデミック」

皆さんの声を募集! 

〔COVID-19 Pandemic〕、2019年末に中国の湖北州武漢市で病原体不明の肺炎患者が発生し、ある医師が警鐘を鳴らしたにも拘わらず警察当局により封殺され,遂にはその医師は亡くなってしまう。その後「新型コロナウィルス」と判明しましたが、隠蔽が続くなか明確な対応策もないまま、急激に感染拡大、その後瞬く間に、イタリア、スペイン、ドイツ、フランス、英国と欧州に拡大し、それから米国ニューヨークに拡大した。

 日本国内では豪華客船「ダイアモンド・プリンセス号」の船内で、集団感染が発生し、3月1日に乗客の下船後に各地に集団感染が発生した。その後「緊急事態宣言」が発令され、「三密回避」「ソシアル・ディスタンシング」、「自宅待機」が要請されました。長期にわたる「自宅待機」は精神的にもかなり疲弊しております。さらに、コロナ・パンデミックの第2波、第3波があるとの予想もあります。

 

 そこで、今回「哲学の会 めてうす」は、会員の皆さんが長期の自宅待機のなかで、いろいろな報道や識者のコメントに接し、気付いたこと、考えたこと、不安を覚えたこと等、多々あると思います。それを忘れないように書き留め,そして投稿していただくことをお願いします。

 最終的には、皆さんからの投稿を纏めて保存版としておきたいと考えております。コロナ・パンデミックは終息するまでの間、その都度書き留めて投稿していただきたい。投稿の締め切り日は、暫く先に設定します。 文字数,文体は自由でお願いします。

 今回のパンデミックが突きつけているものは種々あるのではないでしょうか。そしてそこから私たちは何を学び取ることができるのだろうか。このパンデミックはいずれ終息に向かうものと思いますが、それ以後の世界〔ポスト・コロナ〕の世界はどのような世界になるのでしょうか。 日常生活や、人間関係、哲学・宗教、経済・社会や環境問題、グローバリゼーション、自由主義の功罪、等など、また、緊急事態になると,普段は見えないもの(こと)が見えてくると思います。いろいろな視点からの自由な投稿を期待いたします。 

 

 また、東京文京学習センターが再開されたときには、会員の皆さんとの「コロナに関する懇談会」を開催し意見交換する機会を持ちたいと考えております。

 参考までに、皆さんご存知の、素粒子研究で理論物理学の博士号を持つ、イタリア人作家 パオロ・ジョルダーノ(Paolo  Giordano)が、「COVID-19 Pandemic」がイタリアで猛威を振るっている中、自宅で缶詰生活を送りながら書いた27編の「コロナ パンデミック」に関する、エッセー集『Nel contagio』 (邦訳『コロナの時代の僕ら』飯田良介訳 早川書房) を出版した。(他に小説『素数たちの孤独』『兵士たちの肉体』いずれも早川書房)

 そのなかの、「著者あとがき コロナウィルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」で以下のように書いてありました。

(2020年3月20日付けの『コリエーレ・デッラ・セーラ』紙に掲載された著者の記事「コロナウィルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」(“Quello che non voglio scordare, dopo il Coronavirus” をこの本の「著者あとがき」として追加されたもの)

「コロナウィルスの「過ぎた後」、その内復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。

いったい何に元どおりになって欲しくないのかを。

 

 このところ、「戦争」という言葉がますます頻繁に用いられているようになってきた。フランスのマクロン大統領が全国民に対する声明で使い、政治家に、ジャーナリスト、コメンテイターが繰り返し使い、医師まで用いるようになっている。「これは戦争だ」「戦時のようなものだ」「戦いに備えよう」といった具合に。だがそれは違う、僕らは戦争をしているわけではない。僕らは公衆衛生上の緊急事態のまっただなかにいる。まもなく社会・経済的な緊急事態も訪れるだろう。 今後の緊急事態は戦争と同じくらい劇的だが、戦争とは本質的に異なっており、あくまで別物として対処すべき危機だ。

 今、戦争を語るのは,言ってみれば恣意的な言葉遊びを利用した詐欺だ。少なくとも僕らに取っては完全に新しい事態を、そう言われれば、こちらもよく知っているような気になってしまうほかのもののせいにして誤魔化しそうとする詐欺の、新たな手口なのだ。

 だが僕たちは今度のCOVID-19流行の最初から、そんな風に「まさかの事態」を受け入れようとせず,もっと見慣れたカテゴリーに無理矢理押し込めるという過ちを飽きもせずに繰り返してきた。たとえば急性呼吸疾患の原因ともなりうる今回のウィルスを季節性インフルエンザと勘違いして語る者も多かった。感染症流行時は,もっと慎重で、厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。なぜなら言葉は人々の行動を条件付け、不正確な言葉は行動を歪めてしまう危険があるからだ。たとえば「戦争」は独裁政治を連想させ、基本的人権の停止や暴力を思わせる。どれも――とりわけ今のような時には――手を触れずにおきたい魔物ばかりだ。

 「まさかの事態」が僕たちの生活に侵入を果たしてから、ひと月になる。肺のもっとも細かい気管支まで達するウィルスのように油断ならぬそれは、もはや僕らの日常のあらゆる場面に現れるようになった。ただのゴミ出しに弁解が必要になる日が来ようとは、誰も想像しなかったはずだ。まさか、市民保護局が毎日行う感染状況発表の内容に合わせて自分たちの暮らしを調整する羽目になるなんて。まさか――よりによってここで、それも僕たちが――愛する者に看取ってもらえず、寂しく死ぬことになるかも知れないなんて。しかもその葬儀は音ひとつせず、立ち会う者ひとりいないかも知れないなんて(2020年4月5日現在、感染拡大防止のため冠婚葬祭を含む一切の集会が認められていないため)、誰が想像していたろう? にもかかわらず。

 二月二十一日付の『コリエーレ・デツラ・セーラ』紙(イタリアを代表する日刊紙のひとつ)は、コンテ首相とレンツィ元首相がふたりきりで会談したというニュースを一面トップに置いた。ふたりきりで何を話した? 誓って言うが,僕は覚えていない。コドーニョ(ロンバルディア州ローディ県の町)で最初の「綿棒(タンポーニ)」陽性患者が出たというニュースが同紙の編集部に届いたのは前夜の一時過ぎと遅かったため、その知らせは最終版一面の右端の段にぎりぎりで押し込まれた。 僕らの多くはコドーニョという地名を聞くのも初めてなら、ウィルステストの通称としてタンポーニという言葉が使われるのを聞くのも初めてだった。翌朝,コロナウィルスは、一面トップのタイトルという栄光の地位を獲得した。そして二度と譲ろうとはしなかった。

 振り返ってみれば、あっという間に接近されたような気がする。「六次のへだたり」理論が本当かどうか、僕は知らない。 知り合いのつてをたどっていくと、驚くほど僅かな人数を介しただけで世界の誰とでもつながってしまうという、あの話だ。でも今度のウィルスは、まるで網の目をたどる昆虫のように、そんなひとの縁の連鎖によじ登り,僕たちのもとにたどり着いた。

 中国にいたはずの感染症が次はイタリアに来て,僕らの町に来て、やがて誰か著名人に陽性反応が出て、僕らの友だちのひとりが感染して、僕らの住んでいるアパートの住民が入院した。その間、わずか30日。 そうしたステップのひとつひとつを目撃するたび――確率的には妥当で、ごく当たり前なはずの出来事なのに――僕らは目をみはった。 信じられなかったのだ。 「まさかの事態」の領域で動き回ることこそ、始めから今度のウィルスの強みだった。僕らは「まさか」をこれでもかと繰り返した末に、自宅に閉じ込められ、買い物に行くために警察に見せる外出理由証明書をプリントアウトする羽目となった。義憤、遅れ、無駄な議論、よく考えもせずに付けたハッシュタグ――そのひとつひとつが, 約17日後に、死者を生む原因となった。なぜなら感染症流行時は、躊躇した分だけ、その代価を犠牲者数で支払うものと相場が決まっているからだ。僕らがかって味わったなかで、もっとも残酷な時間単価だ。

 イタリアの死者数は中国のそれを超えた。僕たちは一連の偶発的原因に怒って当然だし、怒るべきだが、問題の根本のところで必ず、自分たちが「まさかの事態」を受け入れるのが不得手な国民であるという事実に直面してしまうはずだ。これは近年、他の似たような感染症流行を経験済みだった国々と比較しての話だ。いずれにしてもここまでくると、僕らにしても、この「まさかの事態」の前進が、今日終わることもなければ、全国民の外出制限を指示した首相令の期限が切れる4月3日に終わることもないとわかっているはずだ(2020年4月5日現在、期限は4月13日まで延長されている)。それは自宅隔離の指示が解かれても終わらず,今回のパンデミック自体が終結しても終わらないだろう。「まさかの事態」はまだ始まったばかりで、ここには長く居座るつもりでいるはずだ。もしかするとそれは、僕らの前に開かれようとしている新たな時代の特徴となるのかもしれない。

 戦争という言葉の乱用について書いているうちに、マルグリット・デュラスの言葉をひとつ思い出した。逆説的なその言葉はこうだ。「平和の様相は既に現れてきている。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある」(田中倫郎訳 河出書房新社)戦争が終わると、だれもが一切を急いで忘れようとするが、病気にも似たようなことが起きる。苦しみは僕たちを普段であればぼやけて見えない真実に触れさせ、物事の優先順位を見直させ、現在という時間が本来の大きさを取り戻した、そんな印象さえ与えるのに、病気が始まったとたん、そうした天啓はたちまち煙と化してしまうものだ。僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなくなるだろう。もしも, 僕らがいますぐそれを記憶に留めぬ限りは。

 だから,緊急事態に苦しみながらも僕らは――それだけでも、数字に証言、ツイートに法令、とてつもない恐怖で十分に頭がいっぱいだが――今までとは違った思考をしてみるための空間を確保しなくてはいけない。30日前であったならば、そのあまりの素朴さに僕らも苦笑していたであろう、壮大な問いの数々を今、あえてするために。たとえばこんな問いだ。すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか。

 

 僕らはCOVID-19の目には見えない伝染経路を探している。しかし、それに輪をかけてつかみどころのない伝染経路が何本も存在する。世界でも、イタリアでも、状況をここまで悪化させた原因の経路だ。そちらの経路も探さなくてはいけない。だから僕は今、忘れたくない物事のリストひとつ作っている。リストは毎日、少しずつ伸びていく。誰もがそれぞれのリストを作るべきだと思う。そして平穏な時が帰ってきたら、互いのリストを取り出して見比べ、そこに共通の項目があるかどうか、そのために何かできることはないかを考えてみるのがいい。

 僕は忘れたくない。ルールに服従した周囲の人々の姿を。そしてそれを見た時の自分の驚きを。病人のみならず、健康な者の世話までする人々の疲れを知らぬ献身を。そして夕方になると窓辺で歌い、彼らに対する自らの支持を示していた者たちを。ここまでは忘れてしまう危険はない。簡単に思い出せるはずだ。もう今度の感染症流行にまつわる公式エピソードとなっているから。

 でも僕は忘れたくない。最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策に対して、人々が口々に「頭は大丈夫か」と嘲り笑ったことを。長年にわたるあらゆる権威の剥奪により、さまざまな分野の専門家に対する脊髄反射的な不信が広まり、それがとうとうあの、「頭は大丈夫か」という短いと言葉として顕現したのだった。不信は遅れを呼んだ。そして遅れは犠牲をもたらした。

 僕は忘れたくない。結局ぎりぎりになっても僕が飛行機のチケットを一枚、キャンセルしなかったことを。どう考えてもその便には乗れないと明らかになっても、とにかく出発したい、その思いだけが理由であきらめられなかった、この自己中心的で愚鈍な自分を。

 僕は忘れたくない。頼りなくて,支離滅裂で、センセーショナルで、感情的で、いい加減な情報が、今回の流行の初期にやたらと伝播されていたことを。もしかすると、これこそ何よりも明らかな失敗と言えるかもしれない。それはけっして取るに足らぬ話ではない。感染症流行時は、明確な情報ほど重要な予防手段などないのだから。

 僕は忘れたくない。政治家たちのおしゃべりが突如、静まり返った時のことを。まるで、結局乗らなかったあの飛行機を僕が降りたら,耳が両方とも急にもげてしまったみたいなあの体験を。いつだって聞こえていたあの耳障りで,常に自己主張をやめなかった政治家たちの声が――少し先を見据えた言葉と考察が本気で意見を言うことをことごとく妨げてきたあの横柄な声たちが――ぱったりと途絶えた時のことを。

 僕は忘れたくない。今回の緊急事態があっという間に、自分たちが、望みも、抱えている問題もそれぞれ異なる個人の混成集団であることを僕らに忘れさせたことを。みんなに語りかける必要に迫られた僕たちが大概、まるで相手がイタリア語を理解し、コンピューターを持っていて、しかもそれを使いこなせる市民のみであるかのようにふるまったことを(移民たちののことを一切考慮せず、大切な知らせが当初、イタリア語のみで伝達されたこと、学級閉鎖にともない、いきなりオンライン授業が導入され、教育現場が混乱した状況などを指している)。

 僕は忘れたくない。ヨーロッパが出遅れたことを。遅刻もいいところだった。そのうえ、感染状況を示す各国のグラフの横に、この災難下でも僕らは一体だとせめて象徴的に感じさせるために、もうひとつ、全ヨーロッパの平均値のグラフを並べることを誰ひとりとして思いつかなかったことを。

 僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを。

 僕は忘れたくない。パンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。

 僕は忘れたくない。家族をひとつにまとめる役目において自分が英雄的でもなければ,常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを。

 

 陽性患者数のグラフの曲線はやがてフラットになるだろう。かっての僕たちは存在すら知らなかったのに,今や運命を握られてしまっているあの曲線も。待望のピークが訪れ、下降が始まるだろう。これはそうあればよいのだがと話ではない。それが、僕らがこうして守っている規律と、現在、敷かれている一連の措置――効果と倫理的許容性を兼ね備えた唯一の選択――のダイレクトな結果だからだ。僕たちはいまから覚悟しておくべきだ。下降は上昇よりもゆっくりとしたものになるかもしれず、新たな急上昇も一度ならずあるかもしれず、学校や職場の一時閉鎖も、新たな緊急事態も発生するかもしれず、一部の制限はしばらく解除されないだろう,と。もっとも可能性の高いシナリオは、条件付き日常と警戒が交互する日々だ。しかし、そんな暮らしもやがて終わりを迎える。そして復興が始まるだろう。

 支配階級は肩を叩きあって、互いの見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を讃えるだろう。自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という輩はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。一方、僕らはきっとぼんやりしてしまって、とにかく一切をなかったことにしたがるに違いない。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある。

 もしも,僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは,そうなってしまうはずだ。まずはめいめいが自分のために、そしていつかは一緒に考えてみよう。

 僕にはどうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境との付き合い方をどう変えるべきなのかも分からない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言できる、まずは進んで考えてみなければ、そうした物事は一つとして実現できない。

 家にいよう(レステイアーモ・イン・カーサ)。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼み、弔おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。」

 

2020年3月20日付『コリエーレ・デツラ・セラー紙』より

 また、今話題の「サピエンス全史」の著者である,イスラエルの歴史家、ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は先頃のNHKとのインタビュー番組(ETV 特集 パンデミックが変える世界)で 「緊急事態の中での監視態勢は、緊急事態が終了しても監視は緩むことなく継続する。また国民は、「不健康になるより、監視されることにより健康が守られるのであれば、監視を受容するようになる。更にAI やデジタル技術により、各個人の遺伝子情報などの生体データを収集して国民を監視するようになる。そのようになれば、独裁者を生み、民主主義の崩壊に繋がることになる。従って、監視は双方向、つまり国民は政府を監視する必要があると』というようなことを言っておりました。

​ 先頃、ある専門医のコメントによると「コロナウィルスに感染しても、重症化する人と、そうでない人がいる、それは遺伝子の違いによるものかも知れない」とのことでした。すると、今研究開発中のコロナウィルスの予防薬・治療薬は、みんなに同様の効能はないということになるのでしょうか? これもまた「生体データ」による個人対応の医療になるのでしょうか?

​野呂生男 

.【新型コロナウィルス】

●ウィルス名:SARS-CoV2 (Severe Acute Respiratory Syndrome-Corona Virus 2)

International Committee on Taxonomy of Viruses:ICTV が2月7日までにSARS-CoVの姉妹種であるとしてこのように名づけている。)  

●病名:COVID-19 (Corona Virus Disease 2019)(2月11日にWHOが命名)

 

「6次の隔たり」(Six Degrees of Separation)  知恵蔵の解説:

 

 世界中の人間は、「知り合いの知り合い」といった関係をたどっていくと、5人の仲介者を経て、6人目でつながるという考え。米国の社会心理学者スタンレー・ミルグラム(Stanley Milgram)が、米イェール(Yale)大学の教授だった1967年に行った「スモールワールド実験」が基になっている。

スモールワールド実験では、直接つながりのない相手に宛てた手紙を、まずは自分の知り合いに宛て、その後、「知り合いの知り合い」を通して転送してもらい、何人を経由して到達するかを検証した。後の研究者によって実験の精度が高められるなどしたが、結果的に、相手に到達するのは、平均すると6人目であり、この実験によって、思ったよりも「世間は狭い」というスモールワールド現象が確認できた。

「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)」もネットワークを介して他人同士がつながるため、SNSを語る上で「6次の隔たり」という言葉が引き合いに出されるが、この言葉は、脚本家のジョン・グエア(John Guare)の戯曲『Six Degrees of Separation』から来ている。なお、この言葉は、世界初のSNSとして知られる「sixdegrees.com」(2000年12月に閉鎖)や、日本の代表的なSNSの一つ「GREE」の語源ともなっている。

10年4月29日にカナダの調査会社「Sysomos」が、Twitterにおけるユーザーのつながりを分析したところ、Twitterユーザーのほとんどは「5次の隔たり」以下であるという結果を発表した。また、11年11月21日に発表された、Facebookがイタリアのミラノ大学と行った調査でも、目標となる相手を含めた知り合いの平均が、計算上4.74。つまり「5次の隔たり」以下であることが明らかになった。このような調査結果から、近年のSNSでは、実生活よりも他人同士のつながりが「近い」ことが分かる。

(横田一輝  ICTディレクター / 2011年)

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